川上氏が作家として、どのような意識で作品に向き合っていたか、小説の内容で考えていたことなどを議論する番組がおもしろかったので、書き残しておきます。
「黄色い家」の内容として、90年代の日本の寄るべなさを描きつつ、当時から萌芽しつつあった、家族のあり方、コミュニケーション作法の変貌、リアリティーを持ちづらくなった生活環境が、フィクションでつぶさに描写されるとのこと。
https://www.youtube.com/watch?v=0sS9WFz66Es
「わたし」というもののリアリティは、これまでどのように認知されてきたか。
また、自分の上位互換がすぐに見つかる環境で、自分というものをどう実感できるだろうか。
そのような実感を伴う機会をどう作り出すかが課題な気がする。
SNSからChatGPTへと、革命的環境の変化を迎えようとしている私たちにとって、これからの頼るべき先は、どのようなものになっていくだろう。
手順を省略することで、失ってきた自分という輪郭を取り戻すにはどうしたらいいだろう。
おそらく個人でできることは、ふたつくらいだと思う。
一つは、手順を省略化しない活動を作って、死守すること。たとえば、趣味のような領域を作ってその領域を守るみたいな感じだ。
二つは、自分の感情や感覚や価値基準のディティールを言語化することだと思う。自分の中にあるちょっとした違和感や、喜びの感情があったら詳しく突き詰めていくしか差異は作れない。