朝から、いつも通り散歩に出かける。
変わらず夏の空である。こちらの夏は蒸し風呂だ。
セミは全身を震わせて鳴いている。
少し歩いただけで、まるで炭酸ジュースの栓を開けたときのように、汗が全身に吹き出した。
家族に誕生日のお祝いを伝える。
これまで離れて暮らしていたこともあって、眼前でお祝いを述べるのは久しぶりだ。
だから無駄に勇気が必要だった。
どうして年を重ねると、あまりにもストレートな言葉は使いづらくなるのだろう。
普段はまったく人生の価値観が合わず、わかり合えない感じで過ごしているけれど、この人に20年くらい育ててもらったんだと、改めて思う。
全然考えは合わないけれど、一生懸命に育ててくれたのは充分受け取っているつもりだ。
Amazonのほしいものリストを、ふと確認する。
昔から、決断をせずに放り投げている、未決定のリストに愕然とする。
こんなにも、意思決定をせずに残してきたのかと。
あぁ、安易にほしいものリストに入れたり、「あとで読む」などを使っちゃダメだ。
目の前の人生の選択に、その都度の新鮮な感情で向き合った方がいいんじゃないかと感じた。買わないと判定をくだしたものは、一旦リストから削除する。
夜は、寿司だ。夕方の散歩が終わって、クーラーの効いたリビングで、麦茶を飲めるとき、夏の喜びは最高潮を迎える。だから夏って最高なんだよね、毎日最高の幸福感が味わえる。
食事後に気づいた。
無意識だったが、寿司を食べるときに、関心度の低いものから食べていたことに。
なんで好きなものから食べないのだろう、自分は簡単に先送りしてしまう意思決定をしがちなのかと、自己認識を更新する。
自分の、無意識的な意思決定の作法は、先延ばししてきた過去の歴史の束になっているのだと感じた。
人生は先送りしてると、タイムリミットが来るものばっかりだろう。
伝えたいことが、伝えれず、明日終わりを迎えるかもしれない。
好きなものから食う、伝えたいときに伝える。
ずっと生きれる前提で生きない方がいいかもしれない。
たぶんそっちの方が、命が輝くのではないだろうか。