生きていると、いろいろな物事の結果に一喜一憂する場面に遭遇すると思う。
今日もそんなできごとがあったので、少し所感を書いてみたい。
私たちが、憂鬱な気持ちになるのは、自分の思い通りにいかない場面に遭遇したときがほとんどだろう。たとえば、相手のことを思ってプレゼントをしたのに、使ってくれなかったとか。自分は絶対にこの会社に合格すると思っていたのに、落とされてしまったとか。
言い換えると、自分勝手な期待シナリオと相手の評価がズレているときに、嫌な気分になる。
なぜ、すぐに結果の良し悪しを判断してしまうのか。おそらく私たちはものごとが宙ぶらりんの状態にあることを楽しめなくなってきているからだと思う。今のように情報があふれて、刺激の強いコンテンツも多いなか、すぐに判断して次という態度がないと、ついていけないという不安があるからではないだろうか。自分で勝手に結論を出した方が、脳は楽なのだろう。
ただ、これだけ周囲との比較が簡単になった世の中で、早急な結論の判定を下して一喜一憂するのは大変危険な状態と隣り合わせな可能性を含むことも頭に入れておいた方がいいだろう。
憂鬱な気分が続くときには、「このできごとは、死ぬ前に大事だと思うことだろうか」「これは自分の力でなんとかできることか」と、自問して、紙に書き出してみると、長いスパンでの視点を獲得できると考えている。
人間万事塞翁が馬という言葉がある。昔の知恵ある人は、良い言葉を残すなと感心する。
私がここで言いたいのは、そもそも人間の限られた認知能力で、ものごとの良し悪しの判断は究極的にはわからないのではないかということだ。
ものごとが決定されることも、自分では捉えきれない、前提や相手の事情、社会的自流などがあまりにも複雑に絡み合っていると考えた方がいい。
自分で良し悪しをうまく評価できるという態度は、知の限界がある私たちにとっては極めて傲慢な構えだとも言えそうだ。
上記のようなことは、あまり受け入れ難い考えかもしれない。
だが、「自分にはものごとの良し悪しを完全に判断することはできない」と受け入れることによって、逆説的に自分のできることにだけ集中することができると思っている。
「このできごとは、死ぬ前に大事だろうか」「これは自分の力でなんとかできることか」を、問うように生きていければと思う。